頑固で難儀をかける父

2016年09月14日

頑固で難儀をかける父
先週、またしても救急車に乗る羽目になった。これで三度目である。歩くことが儘ならない父は家族の介護を要し、一たび病を患ってしまうと救急車あるいは介護タクシーに頼らざる得なくなる。検査を終えての結果に胸をなで下ろしたものの、暫く入院が必要とのことだった。だが、父は何事にも問答無用である。医師の指示に従わず、家族の心配も余所に、家に帰ると言い出して僅か三日間で退院してしまった。とにかく頑固で難儀をかける父である。
家族の中で介護に様々な難事が起こり、背負う負担が余りにも大きいと、時には思いやる気持ちを超えて、それが厄介な重荷となることがある。一体、家族とは何だろうか、とつい考えてしまう。孝心がないのではない。素直に自分の心を見つめてみれば、家族だから当然であるとする否応なしの論理で片付く問題ではないことも確かなのである。
こんな場面に出会う度に、私は映画『ギルバート・グレイプ』(1993年/アメリカ)の主人公である青年ギルバート(ジョニー・デップ)を思い浮かぶ。ギルバートは長いこと家族の重荷を心に引きずって来た。原題「What’s Eating Gilbert Grape」は、何がギルバート・グレイプを悩ませているか、である。
17年前の地下室で縊首した父の死による衝撃で、過食症に陥った母親は200kを優に越すほどの異常な肥満状態になり、家の中での移動もままならなくなった。さらに目の離せない知的障害者の弟もいる。そんな家族にとって、ギルバートは父親のみならず、母親としての役割をも担っていた。昨日と変わらぬ今日を生き、今日と変わらぬ明日を生きる。溜め込んだストレスが解放される機能を持つはずの家族の中で、彼はあらゆる感情を必死に心の奥底へ押し込め、その態様を「留め金で固定されている」という感覚で認知していた。
きっとギルバートにも夢はあったに違いなく、何もかも捨てて夢を追う選択肢もあったはずである。だが、それを選ばなかった。自分が存在する家庭環境で生きて行くことは尊いことだと思うが、彼の家族への参加態様は決して主体的な意思をもったものではない。そう思わせる程に、彼の背負う重さは普通の青年が持つ耐性の限界を遥かに超えるものであった。
されど、果たして目に見える状況や事柄自体だけが重荷なのだろうか。それらの事柄を自分の問題として心に反映させ、それが不安と恐れと絶望を呼んで重荷としているように思える。つまり、それらを受け入れられない自分自身に苦しんでいるのである。それは、しなければならない、仕方がないといった固定観念や諦念から生じているからであろう。そうであるなら、その固定観念や諦念を捨て、自分自身を自分から切り離して客観視し、自己を相対化することで見つめなおせば、重荷という厄介な問題はそれらの事柄を自ら進んで、あるいは喜んで受け止められるかどうかということになりはしないだろうか。


同じカテゴリー(生活)の記事
すように思いました
すように思いました(2016-12-19 12:21)

ようなものになった
ようなものになった(2016-07-21 17:01)


Posted by faizao at 11:42│Comments(0)生活
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。